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2009年12月30日

マダム・エドワルダ【ジョルジュ・バタイユ】

読書/ 文学

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中村先生の「特講Ⅰ」の授業で取り上げられた作品。

バタイユのエロティシズム哲学を学びました。

エロティシズムに哲学などあるのか?

エロティシズムは種の繁栄のための一本能に過ぎないのではないか?

エロティシズムの本質を学ぶことで僕らは何を得るのか?


...興味は尽きないところですが。



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いずれにせよ、エロティシズムは理不尽なものである。一方においてそれはもっとも願わしいものが開ける領域、すなわち私たちが身ぶるいを覚えるまでに深奥な快楽である。しかし、また一方、それは恥辱でもある。かりに、長時間、そのなかに嫌悪を誘うものを感じないとすれば、私たちは人間らしくないといわねばならないだろう。これらの視点の一方だけに固執するのは、認識を拒否することでもある。だが、エロティシズムに背を向ける場合は、可能なものに、生命の維持に背を向けることになる。大抵いつも、エロティシズムは、蔑まれる。その蔑みの卑怯さについて一言しておかねばならない。運よくいけば、悲壮な恍惚へ己を導き得たであろうものを誹謗するものは卑怯者である。(『エロティシズムに関する逆説』より)


本書には表題の『マダム・エドワルダ』の他に、
『死者』、『眼球譚』および論説『エロティシズムに関する逆説』と、
アンドレ・ブルトン、ハンス・ベルメールらが出席する
討論会『エロティシズムと死の魅惑』が収録されています。

『マダム・エドワルダ』自体はとても短い物語で、
その後に続く『死者』、『眼球譚』のほうがボリューム的には大きい。

授業の題材として出会わなければ、
これらの文学は単なるエロ小説、変態小説としか捉えられなかっただろう。
エロ小説ならまだしも、変態的行為の羅列には誰しも嫌悪感を抱くのではないだろうか。

しかしその嫌悪感こそ、バタイユの求める哲学の源ではないだろうか。

食事、排泄、性行為...
人は生存のための本能の遂行に快楽を感じるようにできている。
通常食事行為を不浄なものと捉える感覚は皆無であるのに対し、
排泄と性行為は不浄なものと捉える感覚がある。

不要となった異物を体内に抱えている、という嫌悪。
排泄行為はまあ直接的な感覚であることは分かる。

しかし種を永続的に繁栄させていくために最も重要な行為であるはずの性行為に
どうして人は嫌悪感を抱くのだろう。

安易な性行為はもちろん、性行為について軽々しく語ることをタブーとし、
そうすることを「恥ずかしい」「嫌らしい」「穢らわしい」こととする。

本来は神聖な儀式であるはずの行為を軽視することへ軽蔑。
それはまあ分かるけど、それを差し引いても、
性行為への誘発物「エロティシズム」への根元的な蔑視が人間のどこかにはある。

正直『マダム・エドワルダ』『死者』『眼球譚』を読むだけではこれらの謎は解明されない。
前述したようなエロ小説、変態小説以上のものは見えてこない。
だからそれを補足するための論説と討論会、
および訳者による解説が収録されているんだろうけど。


しかし今の時点では、それらを読んでも僕にはよく分からない。


エロティシズムとは死に至るまでの生命の肯定であります。エロティシズムが本来ひそめている心理的ねらいは、それに結びつく機能からは独立したものであります。すなわちそのねらいは、死が生ける存在にたいして持つ魅力と無縁ではありません。殺人は、サドに従えば、性的覚醒のはたらきをつとめます。人間は非連続的存在であります(お互いは深い淵で隔てられ、各自は己のために死に、その死は彼以外の何者にもかかわらない)。この事実の非連続性は、存在の根元的連続性を排除するちからはありません。つまり、非連続的人間存在はその非連続性を最後まで生き抜くが、それは根元的連続性への郷愁のうちにおいてであります。根元的連続性はただ普遍的なかたちで、個別的存在とはまったく無関係に与えられるだけではない。それは生命体が新しく形造られる度ごとに現れます。おのおのの存在が新たに分かれるはじめには、その存在とそれが最後にそこから分かれる存在との間に、すくなくとも一瞬の連続性がみとめられます。無性生殖では、分裂繁殖が生じることに一瞬の連続性が現れます。有性生殖においては、精子と卵子との間に最初の連続性がつくられます。繁殖の起源にある各存在のこのような非連続性の発動は、外部からは、些細なことがらに見られがちです。だが、生命体は、たとえ微少なものであっても、すくなくともその存在が持つ内部感情を含むことを認めるならば、その見地よりして、非連続性から連続性への移行は重大な事柄であります。有性存在のそれぞれの死にさいしてこの移行が現れます。だがその場合には新たな連続性はじかに把えうる形のもとにはまったく与えられず、死んでいく人間は普通その新たな連続性に気づきません。さまざまな形の繁殖にたずさわる極微動物の活動のうちに、この移行はかろうじて把握され、そこに示される、存在の根底からの動揺が、エロティシズムの三様式を支配しております。エロティシズムのなかでは、存在は死なず、その非連続性に固執します。しかし非連続性に終止符を打つ死に、それは惹きつけられます。(『エロティシズムと死の魅惑』より)

バタイユのエロティシズムを中村先生は
「生」「死」「性」をそれぞれ頂点とする「バタイユの三角形」で説明していました。

生のはじまりと共に死へ向かうもの。
それが「エロティシズム」である。

人は生を受けた瞬間から、エゴという牢獄に囚われ、一生そこから出ることはできない。
それは悲しい孤独な旅である。
しかしその牢獄には窓がある。外から光が差し込んでくる。
同時に牢獄自身も光を発している。
その光が人々に喜びをもたらす。
自分の光を誰かに発し、誰かの光を窓から取り入れる。
それが「繋がる喜び」である。
人間社会はその喜びの分子で成り立っている。

生きている間は非連続であり続けるしかない悲しい性。
その悲しい性を乗り越えるために人は繋がることで一瞬の連続性を得る。
非連続の生は無限の連続性である死へと向かう。
その意味でエロティシズムは生きながらにして経験する死なのである。
それはいずれ迎える死に対しての備えなのかもしれない。

死は避けられないものでありながら、
生物は死を避けようとする。
生きようとする本能が死を遠ざけようとする。

だから一瞬でも死を経験しようとするエロティシズムは
崇高な目的を持ちながらも敬遠されるのである。


「死」は完全性への入口である。
それは一切の無であり、完全であり、永遠である。
生を終えようとするまさにその瞬間、人は神になるのである。
消えかかる生の意識の中で神を見るのである。

生きながらにして死を刹那的に具現する。
それがマダム・エドワルダの「私は神よ」という台詞の真意なのではないだろうか。


エロティシズムを蔑むな。
しかしエロティシズムを弄ぶこともするな。


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