« HOTELS HOMES | メイン | 21_21 DESIGN SIGHT »

2007年4月 2日

ノルウェイの森【村上春樹】

読書/ 文学

forest_of_norway.jpg

ノルウェイの森 上ノルウェイの森 下


文章も分かりやすく、あっという間に読み終えました。
一気に読ませてしまう、という点では東野圭吾作品には及びませんが、
人間の内面奥深くを描きながら一気に読みきらせる、
という点ではスゴイな、と思いました。

単順に心理描写が僕の感覚に似ているからかもしれないけど。
それを多くの読者にそう思わせている点がこの作家のスゴイところなんだろうな。

主人公ワタナベは自分だ。
違うのは過ごしてきた環境と経験。
ただそれだけ。


...ただそれだけで人の人生こうも違うものか。



広告



ちなみにタイトルの「ノルウェイの森」はビートルズの曲だそうです。
ちゃんと聴いたことはないけれど、物語の内容とはあまり関連性はない気がします。


主人公ワタナベは高校生のときに親友キズキが原因不明の自殺を遂げて以来、
あらゆる物事と自分との間にしかるべき距離を置いて生きてきた。
キズキの恋人である直子も。
物語はそんなワタナベと直子を中心とした恋愛物語。

状況展開よりも、心情描写のほうが多いんじゃないかな。
そういう小説は受け入れられれば強い共感を生むけど、
そうでなければ逆に強い反発を生む。

自分はもちろん前者だった。
とても感覚が似ていると思った。
それでも自分がワタナベのように不幸な人生を歩んでいないのは、
セレンディピティ能力の有無によると思う。
自分にはそれがあって、ワタナベにはそれがない。

ワタナベの周囲は不幸な人だらけ。
自分の弱さゆえに精神を病み、死を選ぶ人たち。
強いけど共感する喜びを持てない人間たち。
そんな人ばかり。

自分の周りにはそんな人はいない。
みんな希望を持って生きている。
だから自分も希望を持つことができる。


第八章、一番共感した部分。

ミスター・パーフェクト、永沢さん(ワタナベの先輩)の台詞。

俺とワタナベは似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分がなにを考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味がもてないんだよ。だから自分と他人とをきりはなしてものを考えることができる。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」...(中略)...「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。「そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解してもらわなくたってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」

なんとも傲慢じゃないか。
しかし自分も若い頃はこんな考え方をしてた気がする。
若さって傲慢以外のなにものでもない。


一方でワタナベの言葉。

僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくてもいいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと思っているわけじゃありません」

「どれだけたくさんの人に理解してもらいたいか」より、
「どれだけ深く理解してもらいたいか」というほうが重要だと思う。
どんなに自分を理解してもらいたいと思っても、どんなに自分が信用をおいている人でも、
人は自分のエゴの世界からは出られない。
他人のエゴに近づくことはできても完全共有することは
99.999....の「9」が永遠に続くように不可能なのだ。
自分を理解することさえ難しいのに、どうして他人を理解することができようか。

それでも自分を他人に理解してもらいたいと思うのは、
エゴという殻の中に一人でいるのは寂しすぎるから。
本当に大切なのは「理解しているかいないか」じゃなく、
「理解しようとしているかいないか」ということ。


永沢さんはこうも言う。

「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」

この言葉に対し僕は肯定もするし、否定もしてしまう。
完全理解は不可能、という点ではこの言葉は真実だけど、
「自分を理解してほしいという想い」が「相手を理解しようという想い」に繋がる、
という点では真実ではないから。

この言葉に対する永沢さんの恋人、ハツミさんの言葉。

「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの?」

この問いに対する永沢さんの言葉。

「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。」


...だから恋はいつまでも続かない。続いてはいけない。
他人を完全に理解することは不可能だということに気づかなければならない。
自分を理解することを他人に強いることは不可能なことを強いていることに
他ならず、その人を苦しめるだけなのだから。

大切なのは「理解すること」じゃなく、「受け入れること」ということに
気づかなければならない。

相手の理解できない部分も含めて全てを受け入れること、
それを「愛」と呼ぶんじゃないのかな。

恋はトリガーでしかない。
火打石で火をつけるときに散る火花みたいなもの。
そこから「愛」という火をいかに燃やし続けらるか。
愛から得られる「安らぎ」はそこにある。


二人のヒロイン、直子と緑との絡みもこの物語の見どころである。
二人ともかなり屈折しているが、直子が後ろ向きの屈折なのに対し、
緑はあくまで前向きな屈折だ。

屈折していること自体が問題なのではなく、
向いている方向が問題なのだということをこの物語は教えてくれる。


この記事が面白い!と思ったら...↓
 
にほんブログ村 デザインブログへ

カテゴリ

タグ

関連ページ



コメントを投稿