記録する、ということ

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友達が誕生日占いをしてくれました。

それによると僕は、

  「生まれながらの記録好き

だそうです。

まあそう言われればそうだ。
何かと記念日にしたがるし、このブログもある意味僕の人生記録。

ただ本当に、心底「記録する」ことが「好き」なのかというと、
そうでもない気がします。
例えばこのブログ、単に記録するだけなら誰にも見せない日記帳
でもいいわけですがそーゆー日記の場合、僕は3日と続きません。

ではなぜ僕は記録するのか。

人間誰しも自分が生きた証をこの世に、この世界に遺したいと
思っていると思う。少なくとも僕はそう思う。

ただ普通に生きていれば、普通の幸せを手に入れていれば、
範囲は狭くなるけれどもとりあえずその目的は達成できる。
自分の子孫とその周辺には自分が生きた証が確実に残る。
要は「どれくらい」遺したいか、ということなのでしょう。

別に僕は世界中に自分の存在を焼き付けたいなんて野望はない。
普通の幸せで手に入れられる範囲の人々に残ればいいと思う。
漠然と生きてれば写真やビデオが記録として残るでしょう。
しかしそれだけでは僕の存在は伝えきれない気がするのです。

だからブログという形で残しているのかもしれません。

なぜ写真やビデオだけでは伝えきれないか。

それは若い頃、僕は写真やビデオに撮られることを避けていたから。
若い頃の記録がないから。
若い頃は正直いい思い出がない。
人間って悪い思い出ほど記憶から消えていくものだといいます。
だから僕の記憶には若い頃の記録がない。
それが余計自分を分からなくする。

ただ、じゃあ写真やビデオがあればいいのか、というとそうじゃない。
いくら写真やビデオがあっても心の内面まで録ってくれるわけじゃない。
そして本当に遺したいもの、というのは写真やビデオじゃなく、
心の中にあるものだったりする。

僕が遺したいものはなにか。
正直今の僕ははっきりと形にできない。
なんとなくこういうものを遺したいんだな、というのはニュアンス的に
自分自身では分かる気がするんだけど、
それが他人にきちんと伝わっていない。

だから僕は今自分の考えを整理して言葉という形で遺している。
それがブログというものかもしれない。
ただ形としては別に言葉だけじゃなくてもいいかもしれない、
というよりたくさん形があるほうがメッセージはより伝わりやすいはずだ。

遺す形にいろいろこだわること。
そしてそれが他人に分かるようなものにすること。
これが「デザイン」ということではないでしょうか。
そう考えると言葉も一種のデザインツールです。
しかし他人に理解してもらうことを無視していればそれはデザインに
ならないと思うのです。絵も然り、彫刻も然り、オブジェも然り。

自分の意思を後世に伝えるために、
僕は「デザイン」を追求していきたい。
そしていずれは自分の「デザイン」を持ちたい。いろんな形で。
すでに「言葉」というツールではそれができはじめているのだから、
他のツールでもできなくはないはず。いや、やりたい。

ブログは自由なキャンバス。そしてデザインツール。
別にそこには言葉という形にこだわらず、自由に「自分」を描けます。
そしてそのキャンバスには他人の意思も反映させることもできる。
これほど便利な記録メディアだからこそ、
ブログは急速に広がったのではないでしょうか。

だから僕は記録し続ける。