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2017年3月 1日

生誕140年 杉浦非水 ~開花するモダンデザイン~展【愛媛県美術館】

ビジュアルデザイン/ 展示・イベント

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愛媛県美術館で開催中の杉浦非水展に行ってきました。

1876年に松山に生まれる。
東京美術学校(現在の東京藝大)に入学し、日本画を学んでいたが、
洋画家の黒田清輝の指導によりアール・ヌーヴォー様式に見せられ、図案家へ転向。
卒業後は大阪の印刷会社、商船会社で図案家として活動、島根での図工教師、
東京の新聞社を経て、1908年に三越呉服店に夜間嘱託として勤務するようになる。
以後27年間、三越の嘱託デザイナーとして活躍。
教育関係では、日本美術学校図案科講師、帝国美術学校(現在のムサビ)図案科長を経て、
1935年、多摩帝国美術学校(現在の多摩美)の初代校長に就任。
日本における商業美術の先駆けであり、グラフィックデザインの礎を築いた人物の一人。

愛媛美術館は県出身である同氏の作品や遺品、資料等7,000点にも及ぶコレクションを有しており、
今回はじめてそのコレクションを披露する展覧会が開催されました。


移住者である自分としては松山出身、ということより多摩美の初代校長、ということに縁を感じるものの、
在学中は同氏のデザインについて学ぶ機会はおろか、愛媛に来てはじめて彼の名前を知ったくらい。

前回のウィリアム・モリス展と同様、モダンデザインの源流を学ぶまたとない機会と言えます。
大学を卒業する時点で自分はどうしても商業デザインへの道に踏み出すことができなかった。
遅すぎるスタートや生来の臆病心があったのもあるけれど、
4年間での大学での学びの中でデザインの魅力を知ると同時に、
どうしても消えないデザインの疑問点も見えてしまった。

デザインのあるべき姿とは。
デザインとアートの適切な住み分けとは。
デザインとエンジニアリングはどのようにコラボレートしていくべきなのか。
自分はどのようにしてデザインやアート、エンジニアリングと関わり、
活用していくべきなのか。

...デザインの原点を学ぶことで見えてくるものがあるのではないだろうか。




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[図録 2,200円]


会場内は例によって撮影禁止なので、
会場外で撮影したもの及びネットから探してきたものを使っております。
そのため、必ずしも会場内の様子を正確に伝えるものではないことをあらかじめご了承ください。

会場入ってすぐのエリアに三越関連の作品が展示してありましたが、
「三越の非水か、非水の三越か」と言わしめたように、
やはりこのエリアの作品が一番質が高いように感じました。

特に秀逸だったのが「三越呉服店 春の新柄陳列会」ポスター。


[三越バージョン(1914年)]

内子の町並み保存地区で見かけた「みつこしタイムス」バージョン。
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女性が手にしている冊子のタイトルが「三越」と「みつこしタイムス」の2バージョンがあります。


銀座三越の開店告知ポスター。

[銀座三越 四月十日開店(1930年)]


三越以外にも幅広く手がけています。

地下鉄開通告知ポスター。

[東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通(1927年)]

カルピスのポスター。

[爽快美味滋強飲料 カルピス(1926年)]


モリス同様、植物を積極的にモチーフに活用していました。


[非水百花譜(1929−1934年)]

...非水にとっての写生とは、単に対象の"リアルな形態"を描き出すための訓練でも、そのまま図案へ転用するための便利な"ネタ本"でもない。「(自然を)視る眼を養ふことは、また図案美の眼でもあり、それを採集し構築する眼にもなるのだといはなければならない」として、誰の眼にも留まり、そして誰の印象にも残るべき普遍的なイメージ=図案として構築させていくための基本態度であった。(第4章 自然に学ぶー写生と図案)

図案とは、とどのつまり対象の特徴や魅力といったものを対象から抽出し、デフォルメしたり加工したりすることでそれらを目立たせ分かりやすくするものである。そのためには対象の全体を鋭く、正確に把握することが必要だということなのだろう。その「対象」に自然を選んだのは非水だけではない。ウィリアム・モリスやガウディなど、すぐれたデザイナーや建築家なら誰でもやっている根源的で本質的な行為なのだ。


46歳のときにデザインやアートの本場、ヨーロッパ遊学の機会の機会が訪れる。
パリで活躍していた藤田嗣治とも交流があった。
この遊学時に蒐集した作品の展示もあり、
その中にミュシャの絵三点が、常設展エリアに展示してあったのだけど、
これがもうすごかった。


[「ロレンザッチオ」のポスター(1896年)]


[「メディア」のポスター(1898年)]


[「ハムレット」のポスター(1899年)]

東京でも何度かミュシャの絵を見る機会はあったのだけど、
あらためてこのチェコのデザイナーの凄さを思い知った。
きっと非水も同じ思いだったのではないだろうか。

非水の作品ももちろん凄いのだけど、単なる個人的な好き嫌いなのかもしれないけど、
非水の作品を見た後にミュシャの三枚の絵を見ると、その別格さを感じずにはいられない。
デザインの枠に収まりきらない、やがてはスラブ叙事詩という大作を描く芸術家としての器の大きさ。


この展示全体を通して感じたことは、「デザインは劣化していくナマモノのようなもの」ということ。

「三越呉服店 春の新柄陳列会」のように時を越えて色褪せない魅力を発するものがある一方で、
他の多くが「古臭さ」を感じ、それが作品の魅力を減じていた。
それはデザイナーの能力云々の話ではなく、
デザインというものがその時々のニーズに迅速に効率的に効果を上げるためのものである以上、
社会の中における関係というものが刻一刻と変化するものである以上、
時間の経過とともにデザインは陳腐化していくものなのだ。
とくに媒体の中に文字(言葉)が入っている場合、それが占める割合が多ければ多いほど、
その度合が大きくなる。文字やフォントといったものは時代の趨勢を表すものだからだ。
だから企業や製品のロゴなどというものは定期的に刷新していかなければならないのだ。

一方で芸術はというと、逆の論理で成り立っている。
芸術はその本質が理解されるまでに途方もない時間がかかることもあるし、
時間がかかればかかるほどその価値は上がっていく。
絵画や彫刻、建築の多くがそうであるように。
流行に左右される創造物はエンターテインメント止まりで消え去り、
流行に左右されない強い個性と本質を持ったものだけが生き残る。

同じルーツを持ちながら、デザインと芸術は相反する性格を持っている。
優れた芸術家が良いデザイナーになるとは限らないし、その逆も然り。
両者の枠を超えられる人間はそうそういない。
ミュシャはそうした数少ない天才の一人だった。


想像以上に収穫のある展示でした。


会場外で販売していた砥部焼とのコラボ商品「非水食器」。
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そのそばに貼ってあった非水のサイン集。
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