柳宗悦茶道論集【熊倉功夫編】

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柳宗悦茶道論集 (岩波文庫 青 169-6)


大学の授業で岡倉天心の「茶の本」を読んでから、
少し茶道への興味が湧いてきました。

実際きちんとした茶道を嗜んだことはないんですけど。


んで茶に関する本を探してたら...
八王子の図書館で見つけました。


柳宗悦はあの柳宗理の父親です。
茶道家なのかと思ったら、思想家、美術評論家なんですね。
どうりで千家や楽焼への大胆な批評ができるわけだ。
茶人であれば家元をあそこまで批判できないでしょうね。


茶道とは「もの」への正しい接し方を教えてくれる。
人がものを作り、用い、型とし、礼にまで高めるのはなぜか。


...そこに美を見出し、愛を見出し、和を得んがためである。
それが真の「自由」だと宗悦氏は言う。


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本書は以下の10編+1で構成されています。


  ・茶道を想う
  ・「喜左衛門井戸」を見る
  ・大名物を見て
  ・「茶」の病
  ・『禅茶録』を読んで
  ・茶人の資格
  ・奇数の美
  ・寂の美
  ・疵の美
  ・渋さについて
  ・茶偈


Wikipediaによれば、
柳宗悦という人はとにかく膨大な量の執筆があって、
全22巻の柳宗悦全集というものまであるらしいです。

この本も方々に掲載されていた茶道に関する執筆から熊倉功夫氏が
10編選んで1冊の本にまとめたもの。

この本1冊読むだけでも、柳宗悦の並々ならぬ物事への思いの激しさ、
とでもいうべきものが垣間見えます。
一種の純粋主義とでも言うのでしょうか。
冒頭の「茶道を想う」を最初に読んだとき、
ずばっと真理に切り込むそのストレートさに衝撃を受けました。

ただ、「「茶」の病」あたりであまりに強い現在の家元批判においては
少し違和感というか、不気味さを感じました。
確かに言うことは正しい。一理ある。
しかし正しいことを常にストレートに述べればそれでいいか、
というとそれはちょっと違う気がするのです。
それこそ宗悦氏が本書で述べてるような「含み」が必要なのではないかと。

とかく純粋主義というものは、正道はただ一つで、
それ以外は邪道として認めず排斥しようとする傾向があります。
僕はそこに疑問を感じる。

真実は1つではない。
ある真実と反する事実が常に偽りとは限らない。
真実と相反する事実が真実であることもある。
それが「矛盾」というものであり、この世は矛盾に満ちた世界なのだ。

いくつもある真実をただ一つとすることは当然角が立つ。
強い否定は二元論に囚われている証拠だと想うのです。

世界の矛盾を受け入れることが「悟り」であり、
その境地で見える世界が二元を超えた世界、
「侘び」とか、「涅槃寂静」とか表現される世界ではないのだろうか。


とはいえ、求道の対象をひたすらその精神に置く禅宗に対し、
あくまで「もの」に求道の対象を置く「茶道」の精神に注目した
宗悦氏の眼力も相当素晴らしいものだと思います。
そして言葉による表現力も。

ものづくりを学び、ものづくりにこだわりを持ちたい自分にとって
学ぶべきものがそこには大いにある。

なぜ人は「もの」にこだわるのか。
なぜ人は美しい「もの」を求めるのか。
美しい「もの」とはどういうものなのか。

「名器」というものは作為を越えたところにあると宗悦氏は言う。
なるほどそれも一理ある。
作為を越えたところに無限の美があるのかもしれない。

しかしそれは作為を否定するものではあってはならない。
作為の果てに達する境地のものでなければならない。
「喜左衛門井戸」は確かに大名物なのかもしれない。
美しく見せようという作為から生まれたものではなく、
偶然から生まれた「自然」の美なのかもしれない。

しかしそれは果たして究極の美なのだろうか。
自然は確かに美しい。
でもそれは「ただ」美しいだけなのだと思う。

やはり大いなる感動は作為の果てに見えるのだと思う。
僕は茶道は素人なので茶器のことも当然よく分からないのだけど、
以前上野の国立博物館で展示されていた光悦の楽焼を見て、
僕は美しいと思った。

宗悦氏が言うようにそこには作為が見えるのかもしれない。
作為を越えた「無」の境地には至っていないのかもしれない。
しかし至っていないからこそ、「不完全」なのであり、
それこそが宗悦氏がいう「不完全の美」なのではないだろうか。

宗悦氏は「作為の美」を否定しているように僕には思えるのですが、
それは少し、いや全然違う気がする。
さまざまな作為が美を生み、作為の美が無作為の美を発見した。
そうではないだろうか。

作為の美を否定することは人の美の追究心を否定することにならないのか。

悟りの境地は所詮神の領域だ。
人が人である以上神の領域には踏み入れることはできない。
いや、踏み入れることができないことが人である証拠なのだ。
大切なのは踏み入れることができないと分かっていながら、
踏み入れようとすることではないだろうか。

その姿が「美しい」ということではないのだろうか。
踏み入れることができないと分かっていながら踏み入れようとあがく。
だからその境地を「さびしい」という意味で「寂び」と呼ぶのだろう。


無意識による、偶然による美はあくまで美の「標準」に過ぎない。
美の「参考」品にすぎない。
大いなる感動は作為の果てに生まれる不完全な「有」にある。
たぶん実際にものを作る人ならそう言うのではないだろうか。

どんなに鋭い目を持っていても、どんなに多くの言葉で真実を語っても、
実際にものを作らなければ、「もの」の究極には近づけはしない。

その意味においては父よりは息子のほうが
より「もの」の究極に近づいている気がします。

柳宗理がものづくりの人であったのは、
父親の背中を見て自ずとその道を歩んでいったのかもしれません。


そして僕もやっぱりものづくりの道を歩みたい。
ものを作りたい。
どんなに雄弁に語っても、作らなければ説得力がない。
ただ批判するだけの人にはなりたくない。


僕らは薄っぺらい紙の上で生きてるんじゃない。
触れることで幸せを感じることのできる世界に生きてるんだ。


それならば、美しい触れることのできるものをたくさん作ろうじゃないか。