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2010年11月25日

小説「聖書」旧約篇【ウォルター・ワンゲリン】

読書/ 文学

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小説「聖書」旧約篇〈上〉 (徳間文庫)

小説「聖書」旧約篇〈下〉 (徳間文庫)


とくに信心深いほうではない。

むしろ、実は神については懐疑的で、
それどころか科学の発達した現代社会で、
神について考えることは、ナンセンスだとさえ思っていた。

...この歳で大学にはいるまでは。


どこにでもあるような日本の田舎町で生まれ、育った。
家の中には仏壇があり、神棚があった。
生活圏の中に当たり前のように仏教と神道が存在していた。
とくにそのことに反発することもなかったが、
積極的に受け入れることもなかった。


二十歳で上京して自由の身になってからは、
宗教とはさらに疎遠になった。
事実上無宗教といえる。
当時はそれがごく普通の、「モダン」な日本人の姿だと思っていた。


しかし、大学にはいって芸術を学ぶうちにこう思うようになった。


神を信じない人は不幸である、と。
神を信じる人は幸福である、と。



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はじめに神は天と地を創造された。地には形がなかった。あらゆるところは無で、すべては闇だった。しかし主は深淵の上にご自身の魂を嵐のように送られた。そして神は言われた、「光あれ。」すると光は無のなかでかがやき、神は光をみて、よしとされた。神は光と闇とを分けられた。神は光を「昼」と呼ばれた。闇を「夜」と呼ばれた。夕と朝がすぎて、一日めになった。...(中略)...こうして男と女はエデンに住み、二人とも裸だったがそれを恥じることはなかった。神はつくられたものをすべてごらんになった。すると、みよ、すべてが満足のいくものとなった。これが六日めの終わりだった。すべての仕事を終え、天と地、そのなかの万物がつくられると、主なる神は休まれた。神は七日めに休まれ、そのときからその日を永遠に祝福された。七日めはつねに神聖で、神のためにささげられるのだ。(第七部 切望 28 エズラ)


クラシカルな芸術の大半は宗教と神話を題材にしている。

だから宗教を知れば、芸術をより深く味わえるようになる。
だから聖書は前から一度はちゃんと読んでみたいと思っていた。

しかし聖書は難解な書である。

聖書協会のホームページによれば、
聖書は、1,189章から成り立っており、
一日一章で三年、三、四章読めば一年で通読できるそうだ。
...正直そこまでの忍耐力は僕にはない。

...そんな人間に本書は最適だ。


旧約篇を読み終え、新約編を読み始めたばかりの時点だけど、
旧約篇は新約編に比べると、教訓めいたものが少ないように思える。
イエスの聖性が目立つ新約編に比べて、独特の人間臭さがある気がした。

ひと言で言ってしまえば、
旧約聖書はイスラエルの民と大いなる「主」の物語である。

二度にわたって、創造主は世界の人々と契約をむすぼうとされた。二度目の契約は、ノアと彼のすべての子孫とのあいだに永遠にむすばれたものだった。しかし一度目の時と同じように、人々はこの契約もやぶってしまった。そしてどうなったか。次に何が起こったか。今や部族や言葉や人種や国によって分かれてしまったご自分のつくられた人々に、主なる神はつぎに何をなさることができたか。ユダよ、あなたがたは知らないのか。主のなさったことをおぼえていないのか。イスラエルよ、あなたがたは自分がだれであるのかわからないのか。つぎに主は契約をむすぶために一人の男をえらばれたのだーそしてその男のなかに一つの民があった。...(第七部 切望 28 エズラ)

民は主に助けを求めると、
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、
サウル、ダビデ、ソロモン...など、
主は民の中から自分の言葉を伝える預言者や王を選び出し、
預言者や王を通じて人々を導く。

しかし、人々は主の教えを長くは守らず、
主の教えを忘れ、主をなおざりにした。
その度に主は民を罰し、主に救いを求めるように仕向けた。
...旧約篇はその繰り返しの物語である。

また、旧約編に登場する「主」は、
自分の教えに従う者に対しては寛容であるが、
自分の教えに従わない者に対してはとことん報復する、
という残酷さも持っており、イエスの

  「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」
  「汝の敵を愛せよ」

...という博愛精神に比べて対照的である。


聖書のあらすじを知っていれば、芸術作品も感慨深いものになる。

ノアから世代がくだって、人々はふたたび増えはじめた。彼らは一つの言語で話していた。家族たちはつぎつぎと西へひろがってゆき、やがて彼らはシンアル好ましい野を見つけ、そこに定住した。「さあ、みんなでレンガをつくろうではないか」彼らはレンガを焼き、それらをアスファルトで接合した。彼らは言った、「町をつくろう、そしてその中央に天までとどくような高い塔を建てよう。有名になって、もうちりのように大地に散っていかないようにしよう」人々は平地から空へむかって建物をきずきはじめた。すると人々が何をしているのかと、主なる神がくだってこられた。「みよ」主は言われた。「彼らはみな同じ言葉を話す一つの民だ。そしてこれは彼らがすることのはじまりにすぎない。すぐに彼らは自分たちには不可能なことは何もないと思うだろう。それなら彼らの言葉を混乱させ、たがいに理解できないようにしよう」神は人々の言葉を混乱(バラル)させられたので、その町の名前はバベルとなった。彼らはいっしょに働くことも、いっしょに建設することも、いっしょに住むこともやめた。彼らはちりのように全地のおもてに散っていった。(第七部 切望 28 エズラ)

かの有名なバベルの塔。

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[ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』(1563年)]※画像は大塚国際美術館の陶板画


巨人ゴリアトに立ち向かう少年ダビデ。

「『おまえは鉄の武器をもってやって来た。わたしは主の御名においてやってきたのだから、おまえは主にいどむことになるのだ。今日、主はおまえをわたしの手にあたえられる。そしてわたしはおまえをたおし、イスラエルには神がおられることを地上のすべてのものが知るのだ』少年だ。ゴリアトは面食らった。唇がちぢこまった。恥をかかされた巨大な戦士の、不明瞭なうなり声がサウルにきこえた。あらたにわきあがった怒りにつき動かされて巨人は前にすすんだ。坂をかけおり、ダビデにむかっていった。若者の胸の高さに槍をかまえていた。そして右手にもった剣をふりあげた...」(第四部 王たち 15 サウル)

ミケランジェロのダビデ。
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(出典:Wikipedia)


ベルニーニのダビデ。


モローが描いたのは晩年のダビデ。
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(出典:Wikipedia)

「ダビデは老人になった。もはや骨のまわりに筋肉はついていなかった。胸の肉は、皮のおおいのようにおりかさなった。彼はよくアビシャグという女に話しかけた。『わたしの歯はほとんどなくなってしまったから、もう噛むこともできない』...(中略)...『窓からそとをながめたこの目はくもってしまった。アビシャグよ、耳の扉もとじてしまったから、家のなかの音も小さくしかきこえないーそれなのに鳥の声にはおどろかされるのだ』ダビデはシュネムの女アビシャグが好きだった。...(中略)...ダビデ王は目覚めている日はほとんど宮殿の屋上ですごした。町のなかを移動することはめったになかった。城門から出ることはまったくなかった。庭が彼のなぐさめになった。仮小屋が彼の寝室だった。(第四部 王たち 16 ダビデ)

巨人ゴリアテを倒したかつての美声の羊飼いも、
王としての晩年は、罪を犯し、疲れ果てていた。


ヤコブと天使の戦い。

ヤコブは風を感じ、それから寒けをおぼえた。だれかが川の土手をにまいおりた。そのみえないものを感じることができた。するとそのだれかは彼をおそい、彼を石だらけの地面に打ちつけ、彼と格闘しはじめた。彼らは川のそばでとっくみあった。ぐるぐる回り、たがいを切り立った岩の壁に投げ合った。静止した静寂のなかで一晩じゅう格闘するするうち、やがて空高く夜明けの灰色のすじがはしった。ヤコブの敵は、彼の腿のくぼみにふれて関節をはずした。ヤコブは相手の太い腰に腕をまわして、しがみついた。がっしりとした敵は、「はなしてくれ、夜があけるから」と言った。しかしヤコブは、「わたしを祝福しなければはなさない」とさけんだ。「おまえの名は?」「ヤコブ」「おまえの名前はもうヤコブではなく、イスラエルとなる。おまえは神や人と戦い、勝ったからだ」戦う者は言った。(第一部 父祖たち 3. ヤコブ)


ゴーギャンのヤコブと天使の戦い。
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(画像は大塚国際美術館の陶板画)


ドラクロワのヤコブと天使の戦い。
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モローのヤコブと天使の戦い。
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(出典:Wikipedia)


ルドンのヤコブと天使の戦い。


イエスの奇跡という派手な演出の新約編に比べると地味かもしれないけれど、
歴史は同じことの繰り返し、という真理を説く旧約篇は、
今の時代、ある意味説得力があるのかもしれない。



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