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2011年1月22日

月と六ペンス【モーム】

読書/ 文学

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ウィリアム・サマーセット・モームの「月と六ペンス」。

例によって中村先生の紹介。
ゴーギャンをモデルにした小説、ということで読んでみました。

ロンドンの株式仲買人であったストリックランドは、
四十歳にしてある日突然、仕事と家族を捨ててパリに逃げた。
画家になるために。

正式な美術教育を受けたわけでもない男が、
いきなり自分の絵だけで生活していけるはずもなく、
極貧生活を余儀なくされるが、そんな苦境をものともせず、
ひたすら絵筆を動かし続ける。
何かを求め、見つけ出そうとするかのごとく。

他人からの干渉を拒み、ひたすら孤高の道を進んだ男は、
最後に行き着いたタヒチで地上の楽園を見つけ出す...


ストリックランドの人生は、
まさにゴーギャンの人生そのもののように思えるけど、
実際のゴーギャンはここまで完全無欠ではなかったように思える。
これはゴーギャンが願った理想の人生ではないだろうか。


男はなぜ平和な家庭と仕事、すべてを捨てて、貧困と孤独の道を選んだのか?



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[我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか(1897-1898年)]
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(出典:Wikipedia)


この物語は作家である主人公「私」の目を通して、
ストリックランドの半生が語られる。

ストリックランドの才能と人間性に対比する存在として、
三流画家ストルーブが登場する。
性格は親切で温厚、芸術作品への鋭い鑑識眼を持ちながらも、
自分自身は凡庸な作品しか生み出せない。

優しくて親切で、人間的にすごくいい人なのだけど、
自分を省みずに他人にのめり込むその姿勢はどこか好きになれない。
それは一種の「弱さ」だから。

親切にしたストリックランドに裏切られ、妻を寝取られる。
正直者が馬鹿を見る。
当然ストリックランドにむかつく感情が起こったけれど
それでもストルーブに同情する感情は起きなかった。

人間は文明を持った存在である前に「ヒト」という動物である。
そこには例外なく自然界の弱肉強食の掟が存在する。
それを無視した文明に魅力などあるのだろうか。


ストリックランドの強烈の個性の前には、
ストルーブどころか、「私」さえも凡庸な存在に見えてしまう。
「私」が凡庸に見えるということは、
著者であるモームが凡庸に見えてしまう、ということである。

しかし、そこがモームの天才性であり、表現者としての潔さでもある。
作品のためならば作家自身の評判など気にも止めない。
その姿勢はストリックランドの頑なさそのものではないだろうか。


「美は、この世で最も貴重なものだ。浜辺に転がっている石ころとは違う。通りがかりの人が何気なく拾い上げるようなものじゃない。美というのはね、不思議ですばらしいもの、芸術家が心で苦しみ抜いて、この世の混沌の中から生み出すものなんだよ。でもね、生み出されたからと言って、誰もが見て、すぐに美だとわかるわけじゃない。それが美だとわかるためには、芸術家の苦しみを自分の心でも繰り返さなくちゃ・・・。美は芸術家が君に歌ってくれるメロディだ。それを自分の心でもう一度聞くためには、知恵と感性と想像力いる。」「でも、わたしがあなたの絵を美しいと思うのはなぜ?初めて見た瞬間から、とても美しいと思ったわ」(P133)

ストルーブの言葉。
この言葉からして、彼が表現者としての資質を欠いているのが伺える。
美は至る所に転がっている石なのだ。
それをいかに見出して磨くかが、表現者(画家)としての資質なのだ。
どこか遠くにあるものを、特別な手段で見つけ出す。
このような思考が表現の幅を狭くする。

表現者にとって、第三者がどのように自分の表現を解釈するか。
これを最優先して考えるのがデザインなのだろう。
しかし、芸術の場合はその前に、
自分の中にあるイメージを自分の外に出して表現したとき、
それが自分自身満足のいくものであったのか。
それが一番重要なのではないか。

ストルーブにはその資質が欠けていた。
周囲ばかりを気にして自分をおざなりにした。
芸術家には向かないタイプだ。


「世間に知られたくないんですか。画家であるからには、評判に無関心ではいられないでしょうに」「子供だな。個の意見すら気にならんのに、群れの意見を気にしてどうする」...(中略)...「ではどうして絵の出来不出来を気にするんです」「気にせんよ。目にみえるものを描きたいだけだ」「私だったら、無人島で本が書けるか自信がありませんね。何を書いても、それが誰の目にも触れないのでは・・・」ストリックランドは長い間黙っていた。だが目が異様に光っていた−魂を興奮させ、恍惚に導く何かを見ているかのように。「無限に広がる海の真ん中にぽつんと浮かぶ島を想像することがある。そこの隠れ谷に住んでいるんだ。見慣れない木々囲まれた静寂の中にな。そこでなら、求めるものが見つかるかもしれん」(P144)

対するストリックランド。
周囲の評価をまったく気にせず、意に介さない。
それは芸術家としての「強さ」である。

誰だって誰かに認められたい。
だから他人からの評価が気になる。
そのために少なからず自分の中の信念を曲げ、
他人の望むものを優先して表現しようとする。
「それも自分なんだ」と自分に言い聞かせようとする。
しかし、それは芸術家としての「弱さ」である。
多くの芸術家はこの「弱さ」の壁を乗り越えられずにいる。

しかし、ストリックランドはこの壁の向こうにいる。
それが彼の強さである。


一方で極度に周囲を切り離そうとするストリックランドの姿勢に
疑問を感じる部分もある。

人はエゴという孤独の殻から一生出られないにせよ、
そのエゴは常に外部と繋がっている。
外部を切り離したエゴなど、それこそ非現実的だ。
現実を無視した自己表現に魅力などあるのだろうか。
だからキュビスム以降、外部から隔絶したエゴを描く抽象絵画というものを、
僕はあまり好きになれない。


このブログも、ブログだから続けられる。
誰も読まない秘密の日記だと、3日と続かない。
エゴと外部が繋がっているからこそ、面白い。

...これってやっぱり「弱さ」なのだろうか。


「過去のことなど考えんな。重要なのは永遠に続く現在−それのみだ」(P147)

まさに動物として生きる本能そのものを表現した言葉じゃないだろうか。
動物は過去を振り返らない。未来を想像したりもしない。
過去を振り返っても、未来を想像しても、腹の足しになどなりはしない。

しかし過去を振り返って反省するからこそ、
未来を想像して希望を持つからこそ、
人間は唯一自らの意志で進化できる動物であれるのではないか。


「パリに来てから、恋をしましたか」「そういう馬鹿げたことに費やす時間はない。短い一生に、恋と芸術の両方は無理だ」(P148)

恋を馬鹿げたこと、と言いながら、
芸術と同時に行うことはできないほど大変なもの、という自覚は持っている。

一度は家族を持った男である。
今はどんなに冷酷非情であっても、愛が何たるかは知っている。
愛を知らない人間に、人の心を打つ絵など描けはしないのだから。


愛は人を等身大より少し大きくし、同時に少し小さくする。恋をする人はもはや自分自身ではない。一人の人間ではなく物、自我とは関係ないある目的を達成するための道具となる。どのような愛にも感傷が入り込む。そしてストリックランドほど、感傷という弱さから遠い人間はいない。愛とは取りつかれることでもある。外部からの桎梏をもっとも嫌うストリックランドが、そんなことに我慢できるはずがない。ストリックランドには正体不明の渇望があり、それは自分でもよくわからない何かに向かって絶えず彼を駆り立てている。前進を妨げる何かが心に生じれば、ストリックランドはその何かを心から抉り出す。いかに苦痛でも、満身創痍、血まみれになってでも必ずそうする。ストリックランドから私が受けた印象は複雑だ。(P209)

愛はエゴを弱くさせる存在としてストリックランドは畏れ、遠ざけた。
それが彼の最大の強さであると同時に、最大の弱さでもある。

愛なくして人間たり得ることなどできはしない。
愛をそばに置いて、なおかつ、それでもエゴを見失わないでいることが
本当の強さではないのか。


一般に男にとっての恋愛は日常の出来事の一つにすぎず、小説の中での恋愛の扱われようは、人生の現実からかけ離れている。...(中略)...ほとんどの男は心にいくつもの仕切りを持っている。その一つ一つに異なる活動が入っていて、ある一つを取り出しているときは、一時的にほかを忘れる。当面の活動に全神経を集中して、ほかの活動から邪魔が入ったりすると気分を悪くする。恋人として男女の違いを見ると、女が一日中愛しつづけられるのに対し、男は途切れ途切れにしか愛せないといったところだろうか。(P286)

別に男女差別する気は毛頭ないけれど、
自分は男だから、この言葉にはすごく共感する部分はあるし、
じゃあ女はどうなのか、というのは一生理解できないのかもしれない。

自分なりの経験から言うならば、
女性は同時に複数のことを処理することに長けた生きもののように思える。
だから女性は昔から家事が得意であり、秘書も女性が多いのであり、
スピードとマルチタスクが求められる現代社会で、
女性の地位が急速に強くなってきているのである。
そしてそんな女性に倣おうと、男も「女化」して、
いわゆる草食系男子なるものが増えているのではないだろうか。

しかし、世の中で人を感動させるものの多くは、
男であろうが女であろうが、他のすべてを廃してでも、
ただ一つのことに集中する「執念」によって成されるのではないか。


現代社会はその「執念」を忘れていきそうで、なんだか怖い。


ストリックランドは職人より勤勉に働きながら、職人より貧しい暮らしをした。人生にゆとりと美しさをもたらすーと、ほとんどの人が考えるー諸々のことには見向きもしなかった。金銭に無関心。名声など歯牙にもかけない。普通の人間はこの世界と妥協しながら暮らしているが、ストリックランドはそれをしなかった。が、だからといって褒めるほどのことでもない。誘惑を誘惑と感じず、妥協の必要がなかっただけの話だ。パリに暮らしながら、テーベの砂漠に独居する隠者より孤独だった。他人には、放っておいてくれること以外、何も求めなかった。ある幻以外は目に入らず、それを追い求めるためなら、自分自身を犠牲にすることはもちろん(これは多くの人ができる)、他人を犠牲にして省みなかった。それほどの幻を見ていた。ストリックランドは実に不快な男だ。それでも、やはり偉大な男だったと思う。(P288)

論語に「子曰く、徳弧ならず、必ず隣有り。」という言葉がある。
この言葉を聞いたとき、
自分が孤独なのは、自分が未熟だから、という想いに襲われた。
友達の多さは徳の多さだ、と。

しかし、現代人の多くは孤独が怖いから、ただ群れているだけのように見える。
そこに確固たる信念などなく、周囲に流されるだけ。
もちろん時には流される柔軟さも必要だ。
しかし確固たる信念を持ってこそ、人は充実した人生を送ることができる。
そのためには、時にはエゴを外界から切り離して、
一人静かに瞑想、熟考することも重要なのである。

他人への思いやりは立派な徳である。
が、自分への思いやりはそれ以上に重要な徳ではなかろうか。

自分を思いやれない者が、他人を本当に思いやることができるだろうか。
だからストルーブは悲劇に見舞われた。
そして自分を省みなかったことが周囲にも悲劇をもたらした。


決して知性が際立つとは言えず、その絵画論も常識から大きく踏み出すものではなかった。作風が多少似通っている画家にセザンヌやゴッホがいるが、ストリックランドが彼らについて何かを語るところなど、私は聞いたことがない。それ以前に、作品を見たことがあるかどうかも疑わしい。印象派をあまり評価していなかった。技術的には大いに感心するところがあっても、絵に向かう態度が凡庸と映ったようだ。...(中略)...ストリックランドはエルグレコを知らなかった。ベラスケスには大きな尊敬と多少のもどかしさ、シャルダンには喜び、レンブラントには恍惚を感じていた。...(中略)...ストリックランドの目にとまった画家のうち、私が多少なりとも意外だと思ったのは、大ブリューゲルだけだ。当時、私はこの画家をほとんど知らなかったし、ストリックランドには私に説明するだけの表現力がなかった。私が大ブリューゲルについての発言をおぼえているのは、それが実に不満足な内容だったからだ。「まあいいが、こいつには描くのが地獄だったろうよ」と言った。(P289)

ストリックランドの絵画哲学。
ここにゴーギャンとの大きな相違が見られる。

印象派をどのように考えていたかはともかく、
ゴーギャンは印象派に深く関わっていた。
印象派展に自身の作品を出品もしている。
かの有名なゴッホとの共同生活もあった。
...結果的には悲劇に終わったけれど。
その意味では印象派の画家が「絵に向かう態度が凡庸と映った」のは
ゴーギャンが受けた印象にも当てはまるのかも。
画家の個性を意識しながらも、
あくまで「見える光」の表現を主体にした印象派に満足できなくなったのだろう。


ストリックランドはタヒチで地上の楽園を見出せたけれど、
ゴーギャンは結局タヒチでも地上の楽園は見出せず、
最終的にはマルキーズ諸島にまで赴き、そこで生涯を終えたけれど、
はたしてそこで地上の楽園を見出せたのだろうか。


生まれる場所を誤る人がいるー私にはそんな気がする。何かの間違いである土地に生まれ落ち、本来生まれるはずだった未知の土地への郷愁を抱きつづける。生まれ故郷では異邦人だ。子供の頃から見知った青葉の茂る小道も、よく遊んだ大通りも、彼には仮の居場所に過ぎない。現実にその土地しか知らないのに、自分とは無縁の土地だと思い続け、肉親に囲まれて一生を送ってきたのに、自分は余所者だと感じつづける。その違和感こそ、永遠の何か、わが身を同化させられる何かを求めて、人を広く遠くさまよわせるのではなかろうか。それとも、心の奥底に潜む先祖返りの衝動が人を突き動かし、歴史の曙光の中で先祖が後にした土地に戻ろうとさせるのだろうか。ある場所に行き着き、これこそ我が故郷だという不思議な霊感に打たれる人がいる。これこそ求めていたわが家だと確信し、初めて見る風景と初めて会う人々の間に腰を落ち着け、生まれたときからそこに暮らしていたかのように自然に暮らしはじめる。そしてようやく安息を得る。(P330)

およそ20年前に故郷を離れた。
20年東京に暮らして、いいかげん孤独な都会暮らしに見切りをつけ、
故郷に帰りたい、という想いがある一方で、
なかなか踏み切れない自分もいる。

そんな自分の「踏み切れない」部分を指摘されているように思えた。

実の親ではなく、血の繋がらない人間によって与えられた故郷だけに
余計にそう思うのかもしれない。


一番したいことをする。居心地の良い場所で心安らかに暮らす。それが一生を台無しにしたことになるだろうか。外科医として名を上げ、年収一万ポンドを稼ぎ、美人の妻を持つことが成功だろうか。結局は、人生をどう意味づけるかによる。社会から個人への要求と、個人から社会への要求をどう認識するかによる。(P337)

理想の人生とはこれいかに。

考え方次第で人生はもっと豊かになる。
経済力や能力で人生の豊かさが決まるのではない。


言葉では言い表せない驚異と神秘の構図に、医師は息を呑んだ。理解できず、分析もできない感情が体中に満ちてきた。畏れと喜びー天地創造の場に立ち会った者の畏れと喜びか。官能的で、情熱的で、途方もない・・・だが、同時に、身の毛のよだつ何か、人を恐怖のどん底に叩き込む何かがある。これを描いたのは誰だ。自然がひた隠しに隠していた深みにまで潜り込み、そこに守られていた美しくも残忍な秘密を掘り出してきた男が描いた。人に知られること自体が不浄である秘密ーそれを知った男が描いた。ここには原始の気配、畏れ入るべき何かがある。(P380)

ストリックランドが息を引き取る間際に描き上げた傑作が、
ゴーギャンの作品でいうところの「我々はどこからきたのか...」に
あたるのだと思うのだけど、国立新美術館でこの絵を間近に見たとき、
正直ここに述べられているような境地には至れなかった。

ゴーギャン自身も至ることはできなかったのではないか。
僕にはそう思えてならない。
その意味で、ゴーギャンはやはり不幸だったように思う。

ストリックランドの最期の遺作は描き上げた瞬間、その使命を終え、
灰と化し、後世に残らなかった。
一方、ゴーギャンの遺作は後世に残った。
究極の表現は、美術館という小さな箱に閉じこめておくものじゃないのだろう。


この物語は、「作家」として生きることの気構えを教えてくれる。
自己表現者としての道の厳しさを教えてくれる。


タイトルの「月と六ペンス」は、
「理想」(月)と「現実」(六ペンス銀貨)を意味するものらしい。

夢だけでは喰ってはいけないが、
さりとて現実を生きるだけでも人間は幸せにはなれない。


理想と現実は、それぞれ別の二つの存在ではなく、
コインの裏と表のような関係ではないだろうか。
コインの裏と表のギャップを埋めるために人は懸命に生きる。

ただ一枚のコインを、人は生きる。


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