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2010年1月22日

イサム・ノグチ ~宿命の越境者~【ドウス昌代】

アート/ 読書

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「地球を彫刻した男」イサム・ノグチの評伝。

作者のドウス昌代さんは名前からしてイサムと同じハーフなのかな、
と思いきや旦那さんが外国人というだけでどうやら生粋の日本人のようです。
余談ですが、ドウス昌代さんの出身である北海道岩見沢市の
岩見沢複合駅舎が2009年グッドデザイン大賞を受賞しました。
この本を読んだタイミングにおいて、なにかしら奇縁を感じます。

イサム自身も「ある彫刻家の世界」というタイトルで生前に自伝を出しているものの、
その大半は自分の作品の写真で占められ、出自に関する文章は30ページほど。
彼の本質を理解するには十分なものではなかった。

彼は自分の人生の足跡を記録として残すことにこだわる人だった。
多くのアーティストと同じく文章を書くことはそれほど得意ではなかったが、
家族や友人とよく手紙のやりとりを行い、その手紙を大事に保管していた。
晩年は自分の人生を自らの肉声で録音するということまでした。
彼は非常にエゴの強い人間だった。

その記録と共に彼が残した足跡を筆者が根気よくたどることにより、
この物語は実現している。
記録によるイサム本人の声と、筆者の取材という主観と客観の双方からの
アプローチによりイサムの実像がよりくっきり見えてくる。

この本はただイサムを賛美するだけでなく、
厳しい批評も賛美と同じくらい含んでいる。
その点でこの本は正直な評伝だと思った。


ナショナリティのギャップがまだ現在ほど寛容に受け容れられない時代。
日本とアメリカの「アイノコ」はどちらの社会からも受け容れられなかった。
その耐え難い傷がイサム・ノグチの出発点となっている。
ナショナリティを超え、ボーダーレスのアートという領域に
自分が属することができる場所を見出そうとした。
しかし皮肉にもその特異な出自はアート界をも戸惑わせた。
「巨匠」と呼ばれながらも、奇妙なほど捉えづらい存在とした。
それがイサムらしさ、ということなのかもしれないし、
イサムの巨匠たらんところでもあるのだと思う。


ブランクーシはその「純粋性」において惹かれる。
一方イサムはその「渾沌性」において惹かれる。



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[『ウンディーヌ』製作中のイサム(1925年)]


自分がこのブログで最初にイサム・ノグチに触れたのは、2005年
まだエンジニアとして会社勤めしていた頃で、
デジハリに通い、デザインに興味を持ちだした頃。

有名な照明器具「あかり」くらいは知っていたけれど、
彼の彫刻についてはほとんど何も知らなかった。
それでもどこか惹かれた。
自分の中の第六感的な部分を刺激するものがあった。

その後香川県の牟礼町にある庭園美術館にも足を運んだし、
さらにニューヨークの「ノグチ・ミュージアム」にも訪れた。

「エナジー・ヴォイド」などいくつか惹かれる作品はあったものの、
作品そのものに、直接的に心に訴えかけてくるものは正直それほどなかった。
作品としては照明器具やテーブル、ソファなどの彼の「デザイン」に惹かれた。
彫刻作品、という点においてはミケランジェロやベルニーニなどの
具象彫刻のほうに心惹かれる。

石であることを忘れさせるほどの肉感。
単に技巧的にスゴイと思わせる以上の感動を与える彼らの具象彫刻に
彫刻としての魅力があると思った。

それだけにどこか不思議だった。
なぜ、こんなにイサム・ノグチという人間が引っ掛かるのだろう、と。
シンプルであればあるほど、本質は逆に曖昧になっていくような
抽象彫刻というものに違和感を感じながらも、
イサム・ノグチという人間への興味は失せなかった。


この本を読んで、この疑問が完全に解けたとはまだ言い切れないけれど、
ヒントは確実に得られた気がする。


上巻ではイサム・ノグチを語る上で欠かせない両親の出会いから、
日本での幼少時代、アメリカでのハイスクール時代を経て、
彫刻家として活動を開始するまで、
下巻では生涯ただ一度の妻、山口淑子との出会いから、
生涯最後の仕事であるモエレ沼のプレイ・マウンテンを経てこの世を去るまで。

読んでまず驚いたのが、実に広い交友関係。

ブランクーシに師事し、バックミンスター・フラーを友とし、李香蘭を妻としただけでなく、
アレクサンダー・カルダー、マン・レイ、ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ、ネルー、
アントニン・レーモンド、フランク・ロイド・ライト、ルイス・カーン、I.M.ペイ、
藤田嗣治、新渡戸稲造、野口英世、北大路魯山人、丹下健三、磯崎新、
谷崎吉郎-吉生親子、...

できすぎとも思えるくらい実に多くの著名人との交流があった。

...にもかかわらず彼は生涯孤独を感じ続けた。
自らの出自の呪縛から逃れられなかった。
その点では彼は不幸だったのかもしれない。

心を惹く言葉としてはやはり下巻最後あたりに集中するのかな。

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[ユネスコの庭園(パリ、1958年)](出典:Wikipedia)

「決まり事」の多い伝統的日本庭園の植栽を長年手がけてきた「助っ人」 の目に、イサムのやり方はでたらめにつきた。前述のように、イサムが意図した「下の庭」は、≪日本庭園へ敬意を表する≫ものであっても、日本庭園そのものではない。ユネスコビルに調和する庭であった。イサムによれば、≪伝統を学び、しかもそれを強く統御することは一つの挑戦である。私の努力は、日本人の手によって歴史の夜明けから私たちの時代まで伝えられた様式を、新しい時代とその要求に結びつける方法を発見することであった。(中略)庭園の精神は日本のものであるが、自然石の実際の構成は、いわゆる「蓬莱」の伝統に忠実に従った大石や築山の配置を別とすれば、私自身のものだ≫...(中略)...イサムが庭園という空間で「実験」した、アーティストとしての意図を、重森が送ってきた日本からの「助っ人」に理解せよというほうが無理であった。連日イサムと言い合いがつづいた末、「助っ人」は一ヶ月の予定を早々に切りあげて帰国してしまった。(下巻p184-185、第五章 庭という小宇宙-Ⅰ ユネスコ庭園)

自らの庭園美術館、モエレ沼などは知っていましたが、
庭園に深い関心を持ち、多くの庭園を手がけていたとは知りませんでした。


・チェイス・マンハッタン銀行沈床園(ニューヨーク)


・カリフォルニア・シナリオ


モエレ沼公園(北海道札幌市)


・ビリー・ローズ彫刻庭園(イスラエル)
・イェール大学バイネッケ稀覯本図書館沈床園
・リヴァーサイド・ドライヴ遊園地(NY、カーンとの共同、実現せず)

など、日本では、

・リーダーズダイジェスト東京支社の庭園(現存せず)
・草月会館ロビー
・土門拳記念館庭園

などを手がけています。
庭園とまではいかなくとも庭園に置く噴水、遊具といったものも手がけていることから、
いかにイサムが「閑(レジャー)」に興味を抱いていたかが伺えます。

・大阪万博、万博公園の噴水

・札幌市大通公園のブラック・スライド・マントラ(滑り台)

・横浜こどもの国のオクテトラ(遊具)
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(画像は香川県高松市の中央公園のもの)

・ホーレス・E・ドッジ・ファウンテンの噴水

牟礼の庭園美術館そばの公園にもイサムの遊具を見ることができます。

ただ、牟礼とNYの2つの庭園美術館を見る限りにおいては、
イサムの庭園は日本庭園の神髄を超えてはいないように見える。
自分は日本庭園の専門家ではないので、あくまで個人的に感覚によるものですが。

ただ、2つの庭園を見るだけでは見えてこない部分もあると思うので、
やはりモエレ沼やビリーローズなどもっと大きなスケールで実現している
公園を訪れて、その空間を体験してみたい。

いずれにせよ、伝統を重んじると同時に、
時代の進化と共に壊していかなければならない因習というものもあり、
芸術家はそうした破壊をしていく存在であることをイサムは教えてくれる。



[レッド・キューブ(NY)]

<庭の芸術家>という評価には、彫刻という三次元をひたすら追求する<純粋なアーティスト>として逸脱した、という蔑視がこめられていた。イサムと会うたび、デイヴィッド・スミスは、「建築家と組んで仕事をするなんて、君はばかだ」と議論をふっかけてきた。イサムによると、≪スミスにしろ、ヘンリー・ムアにしろ、当時の彫刻家の大半は、建築家を嫌悪していた。建築家と組んだ仕事など彫刻家として妥協を強いられるだけだと考えていた≫イサムは、彫刻作品が完成後どこに置かれるかを無視し、ただ作品ができあがった時点で制作者として満足しているとしたら、それは彫刻の完成を放棄することに等しい、と思った。≪問題は彫刻作品が用途を目的としてつくられるか否かではなく、作品が生きていて、作品の回りの空間に生命をあたえるか否かである≫...(中略)...≪私が一番多く共同の仕事をした建築家は、スキッドモア・オーイングズ・アンド・メリル建築事務所のゴードン・バンシャフトである。いろいろな企画が創始されたのは彼が興味を持ったからで、それらの企画が実現されたのは彼の粘り強さの成果であり、何であれ私の内にあったものが絞り出されたのも、彼の決断力のおかげである。実際、アメリカにおいて果たすことができた建築と共同の仕事は、全部彼の世話によるものだ≫(下巻p202-203、第五章 庭という小宇宙-Ⅱ 大いなる始まり)

彫刻は創るのみならず、それが置かれる環境についても考えなくてはならない。
彫刻を芸術の一分野に留めず、建築と同じ複合要素を持つものと捉え、
その建築との共同により、彫刻の機能を向上させようとした。
大切なのはどれだけ純粋か、ということではなく、
どれだけ多くの人々に、社会に、自然に恩恵をもたらすか、ということだろうか。

建築界で最先端を行く建築家と互角に渡り合っての協業。
そこにイサムの非凡さ、イサムの彫刻の先進性が伺える。


現在にいたるまで、イサム・ノグチについて語られるとき、必ず聞くのは、「作風」の「あいまいさ」である。トレードマークのように、どの作品を見てもすぐそれと分かる独特の「作風」を完成させなかった、という批判である。むろん、イサムは「作風」への批判に応じる、確固たる言葉をのこしている。彼にとって「作風」とは、≪そもそもまゆつばものであった。なぜなら作風とは、制約の問題そのものであるからだ。時を経て私が変われば、それだけ私は、私自身に近くなる。新しい時点の新しい自分に近づくことを意味する。変化は発明であり、新しい創造だ。だから私は変化を讃える。もちろん、私の作品にも、避けがたい、無意識なひとつの流れがある。だが、そのような流れよりも、私はむしろ、意識して関心がある新たな試みでこそ認められたい。私がやりたいのは、彫刻制作そのものではない。私が求めるのは、あらゆるものが彫刻である世界なのだ≫(下巻p328、第六章 さようなら、夢追い人-Ⅰ イサム・ノグチ庭園美術館)

芸術について語るとき、作家と作風の関係はよく議論されることだとは思いますが。
ただ、「作風」は作家が作ろうと思って創るものではないと思います。
もし、意図的に、作為的に、恣意的に作風を創ったとすれば、
それはもはや本質的なものではない。本当の作風ではない。

本質は変わらない。
神は本質のみで構成される。
しかし人間は本質だけで構成されているわけではない。
そして十分な本質を備えていない。
神は人間に「変化」を与えた。
そして人間は常に本質を求めなければならない。
人間は変化を通じて必要な本質を身に着けていく。
それが「成長する」ということではないだろうか。

「作風(スタイル)」は本質を求める家庭で形成されていくものである。
それは他人が判断するためのものではなく、
自分の「道」を自覚するためのものである。


一言でいえば、「ノグチは孤独な人です」とクーの言葉はつづく。「彼はアメリカ美術界でこれまで、けっしてグループに俗そうとはしなかった。仲間意識が希薄で、徹底したエゴイストです。残酷なところさえあります。彼がつねに引いている一線以上に接近する人に、彼はただちに幕を閉じてしまう。彼はその境界線をちょっとでも侵されるのが我慢ならないのです。何か自分に向かって求められるところがみえると、極端に警戒心を募らせ、心を閉ざしてしまう。ノグチは人に自分を与えることができない人なのです。しかし、何も要求せず、負担をかけない人となら、いつまでも友情関係を保ち、そういう友には彼なりに忠実な人です。私とは半世紀におよぶつきあいですが、その間に一度も不愉快な出来事がありませんでした。ノグチが下品な言葉遣いや、不親切なそぶりをしたのをみたことがありません」(下巻p336、第六章 さようなら、夢追い人-Ⅰ イサム・ノグチ庭園美術館)

良い芸術家は良い人格者ではない、ということだろうか。
著しく欠けた部分を持つことが激しい渇望を産み、
狂おしいほどの探求心、追求心を生むのだろうか。

よく芸術をやる上で必要なものとして「センス」が挙げられるけれど、
それは手先の器用さとか、鋭い感覚だとか、
そういうものではないような気がする。

いかに足りてないか、という状態を自覚し、
いかに満たそうか、という強い欲望を持つか。

その渇望心が異常なまでの集中心を産み、人の能力を向上させる。

しかしそのような渇望は、えてして「飢え」を生む。
エゴの壁を厚くし、孤独になる。

それははたして「幸せ」なのだろうか。
欠けているものを満たすことだけが「幸せ」なのだろうか。


<帰属性の希薄さこそ、ノグチの最大の強み>...(中略)...イサムは、アーティストとしての出発点から、帰属性の不確かさを逆手にとって生き延びてきた。≪どこかに所属したいという欲求がいつもついてまわった。その帰属への願望が私の創造の原動力となってきた≫イサムが彫刻家としての長い道程で、一度ならず語ったこの言葉に、彼の生き方そのものが凝縮されているのではないだろうか。帰属の場を一生かかって探し求めた、と彼は言う。だがイサムは、自分のもっとも強力な武器が、帰属そのものではなく、「帰属への願望」であることに気がついていた。「帰属への願望」が創造力への原動力であるかぎり、どこの国にもいかなる団体にもけっして属してはならないことを彼は知っていたのである。アメリカ人にも日本人にもなりえないことを予感しつつ、見た目は「ノマド(遊牧民)」のような開放性で、イサムは「彫刻とは何か」をテーマに、自分自身への旅をつづけた。その生き方の避けがたい結果として、イサムはつねに極度に孤独であった。帰属性の希薄さからの寂寥はは、晩年になるほど、イサムの内部を確実に蝕んだ。<半分は日本人、半分がアメリカ人という、ぼくはつねにどこにも属さない人間なのです>とトムキンズのインタビューに応じたとき、イサムは七十五歳。「巨匠」のその口調に、<あきらかに苦々しいものを感じた>とトムキンズは記している。...(中略)...イサムは、≪他の人間を、いまだかつて心の底から信じることができない≫とも告白している。自分の一番の弱点と自認するこの性格は、人生のノマドとしての彼の宿命の証に他ならない。(下巻p341~344、第六章 さようなら、夢追い人-Ⅰ イサム・ノグチ庭園美術館)

人は自分が生まれる環境を選択することはできない。
誕生の瞬間に(未熟ではあるが)自我は生まれるからである。
その点においてイサムは確かに不幸であった。

しかし人間は自らの意志で成長し、選択できる生きものである。
たとえ生まれた時点での帰属性が曖昧であっても、
成長の過程で人は自らの属性を選択できるはずである。

イサムは定まった属性に帰属することを自ら拒否した。
そうすることで自らの芸術性を高める選択を自らしたのである。

たとえ長い間他人から認められなかったとしても、
彼が「他人を信じる」選択をしていたならば、
彼は日本人にも、アメリカ人にもなれたはずである。
実際必要なときはなっていたはずである。

自らの出自は自分の不幸への言い訳にはならない。
なぜなら、人間にはそれを克服する能力が与えられているからである。

彫刻にあれだけ高い集中力を発揮した彼が、
どうして「他人を信じる」ことに怠惰であったか。
ちょっと不思議な気もしなくはないが、
人間は多面的な生きものある。
多くの矛盾を抱える生きものである。

そこが「より良く」生きることの難しさであろうか。
芸術家として成功しても、人として生きることに彼は成功したのであろうか。


「今、世の中は何でもインスタントになりすぎている。文化の中でも一番新しいものばかりおもしろがり、次から次へ先ばかり追いかける。それはとても危ない。なぜなら、人間はそういうものじゃないからです。人間は何年もかけて文化を形づくるようにできている。そのことをもう一度よく見つめ直さねばならない時代にきているのじゃないですか。日本だけでなく、世界中がね・・・」(下巻p392、第六章 さようなら、夢追い人-Ⅲ 最後の仕事)

何もかもがインスタント。
最近よく感じることである。

なんでもかんでも便利でスピーディーに。
それは一見ハッピーのように思える。

...しかしそこに「工夫する」楽しさはない。

じっくり考えることよりも、効率的に事をこなすことを良しとする。
そこに文化が形成される余地はあるのだろうか。
100年後、この世界に誇るべき文化は在るのだろうか。


人間は多面的な生きものであり、矛盾を内包する生きものである。
そこは渾沌に満ちた場所であり、謎に満ちた場所である。
だから人間は自分自身を純化し、秩序立てることで自分を理解する。
しかしそれは本当の自分の姿なのだろうか。

イサム・ノグチは渾沌に満ちた人間をそのまま表現しようとしたのではないだろうか。
だから一見すると彼の作品は分かりにくい。
しかしまぎれもなくそれは人間そのものである。
ある意味真に純粋な人間の姿なのではないだろうか。

彼と彼の作品を理解することは自分自身を理解することである。
だから不可解ながらも人は彼の作品に惹かれるのである。

彼をもっと理解するには、もっと彼の作品を見るべきなのかもしれない。



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