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2010年10月25日

自然な構造体【フライ・オットー他】

建築デザイン/ 読書

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計算が苦手だ。

昔から算数・数学、物理の類は苦手だった。
微積分が現代社会にどのように生かされているのか、
未だによく分からない。

考えることと、計算することはたぶん別回路だと思う。
脳の中で使われる部分がそれぞれ違うのではないだろうか。

そんな自分が建築、とりわけその「構造」に惹かれるのはなぜなのだろう。
理数系が苦手なのに、理数系の高専に進学したのは、
単なる気まぐれだったのだろうか。


2年生の時、建築構造の授業を受けにわざわざ八王子まで通った。
美大なので構造計算はさわり程度しかやらないのだけど、
それでもけっこう混乱した。
それでも授業は面白かった。


この世界に確かに「存在」しているという実感がほしい。

だから構造というものに興味があるのだと思う。
それを計算ではなく、直感で得たいのだと思う。



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フライ・オットーは軽量膜構造の大家。

建築はそのスケール故に、また自然からの隔絶性故に、自然と対立する。
かつては自らの叡智が求めるままに人間は傍若無人に自然を支配した。
しかし、それが自然破壊に繋がるのみならず、
自らの首を絞めることに彼は気付いていた。

必要最小限で最大効率の機能を獲得するための建築構造。
それを追い求めて彼は軽量膜構造に辿り着いた。
そして構造の着想を自らも属する自然へと求めた。

本書は彼を中心としたワーキンググループの研究成果を
素人にも分かりやすく解説したものである。

前半Ⅰ〜Ⅲ章が解説的な内容、Ⅳ章「全体」が哲学的な内容になっています。
前半の解説は豊富なスケッチや写真で建築書にしてはめずらしく、
分かりやすい文章で解説してくれていますが、
本の大きさの制約がゆえに図の大きさが小さく、モノクロなのが残念。

心揺さぶられるのはやはり後半の哲学的示唆だけど、
そこを考察する前に、まずは冒頭で語られる本書の位置づけを見てみる。

私たちが本書の中で「自然な構造体」と言う時、それはそのように果てしなく変化し得る雑多なものの中から無作為に選んだ物体ではなく、ある典型的な物体を意味している。すなわち、物体を生み出す物理学的、生物学的、技術的プロセスを特にはっきりと見せてくれる、そんな構造体のことである。私たちにとって本質的なものが問題なのだ。したがって、時には古典的なものについても試論が及ぶこともある。仮に技術というものが自然界の物体たる人間にとって他のあらゆる自然に勝つための道具であり、その結果その技術が自然に刃向かい、自然の理に背くものになったとしても、私たちはそれを人間の産物であり、したがってやはり自然の一部として理解しようとするものである。...(中略)...私たちがおよそ全体について語り、<自然な>という表現を偶然なもの以上の意味で捉えようとするなら、まず自らの知識がきわめて不完全なものであることを認める必要がある。例えば、独立柱、支持柱、梁、テント、等の建築の基本形態や、生きている物体の発生や全体性に至る手はずについて、私たちは一体どれほどの知識を持ち合わせているというのか。その限りでは、本書もまた全く不完全であることを避けられないのである。(P10 主題について)

まず、自らの存在を「不完全なもの」として認識することからはじまる。
構造を考える、ということは、
不安定状態から、安定へと向けてバランスをとることである。
いかに高度な知識により他の生物や自然に対して
圧倒的優位な立場にいるとしても、人間は不完全な存在である。
その認識がさらなる成長を促し、自然に対する尊敬、畏怖の念を抱かせる。



[1967年モントリオールExpoドイツ館]

Ⅳ章「全体」からは実にさまざまな構造哲学を示唆してくれる。

私たちが技術の世界で特に追求しているものは、生きている自然や生命のない自然の中に見られるプロセスと似たようなプロセスから生まれる、そんな構造体である。私たちは、このような構造体を「自然な構造体」と呼び、ヒトによって全く新しくつくられたプロセスから生まれたような、多かれ少なかれ「人工的な」ものと区別をする。この自然な構造体を用いることによって、生きている自然界の物体のように、最小限の材料で最大限の効率を達成できる。しかし、自然な構造体を用いるということは<自然に建てる>ことと同じ意味ではない。(P198 自然に建てること - 軽量建築とエネルギーと自然)

自然を模倣するだけでは、自然と一体となる社会を築くことはできない。

「自然」と相反する「人工」も元をたどれば自然から始まっている。
自然の中に潜む真理を見いだせれば、
良質な「人工」というものもあり得るはずである。

この自然の中に潜む真実=「美」を認識する感覚能力「エステジー」を
磨くことが大切だと彼は説く。



[1970年トワイク宮殿]

ヒトがもはやよそ者ではなく、そこに慣れ親しむことができる世界、すなわちその全体を構成し、しかもそこに統合された一員であるかのような、そんなビオトープとは一体どんな姿をしているのであろうか。また、このようなヒトとビオトープに関する考え方は、生物学的に全く不合理な、新たなユートピアを追い求めることを意味するのだろうか。そして、ヒトはあるいは生来不自然な技術屋で破壊者なのだろうか。また一体ヒトは自然を理解し、自然に活動できるようになるのだろうか。私は、ヒトがもしそれを理解しようとしないのなら、その存在そのものが脅かされることになると思う。...(中略)...ヒトもまたそこに帰属する新たなビオトープは、もはや以前のもののように自然に安定に向かうものではない。自然に安定するには時間が足らないのだ。技術の発達が余りに早くなりすぎた。それは、植物や動物が持つ再生能力よりも早いのである。したがって、高度に技術的な計画がプロセスとして不自然なものであったとしても、新たなビオトープは適切に計画、なおかつ少なくともその再生能力が再び回復するまでの間は保護してやらなければならない。現代の技術に課せられる最も重要な役割の一つは、最小限の手段によってこの再生能力を活発にすることである。そしてその解決策を考え出し、実験によって確かめるのは我々の役割である。実験は既になされているが、未だ意図的な反自然を標榜する建築が時代を形成し、野蛮な建物が空に伸び続けているのだ。(自然に建てること - ビオトープ)

科学とは、「分類」することではないだろうか。
いろいろなものが混ざり合った複雑なものを細かく分類して
一つ一つ単純で分かりやすいものとすることで
ヒトはさまざまな事象を理解し、操作できる。
デジタル技術はその最たるものだ。

しかし、あまりにも細分化をしすぎて全体が見えなくなってしまうと、
かえって弊害をもたらすものである。
再び全体へと戻る道が分からなくなり、個々の個体は弱体化する。
現代社会で道に迷う人があまりに多いのは、
このことを如実に現してはいないだろうか。

自然はあらゆるものを含む。
できることはできる人がやればいい、という時代は終わった。

個性を求めることは、分業化によってなされるのではない。
人は有機体としてある程度の万能性が求められるのである。
自給自足。
必要なものは自分で創る。



[1971年「北極圏都市」(実現せず・丹下健三協働]

この地球上のそれぞれの場所の、それぞれに最適な状態、すなわち石、植物、動物、ヒト、天候、気候の最適な組み合わせには、たった一つの、そこにしか見られないような全体性を示す、典型的なパターンしかあり得ないように私は思う。それ故に、ヒトはそれぞれ個々の領域を持つことができると思うのである。だとすれば、私たちが現在知っている典型的な住宅は、全く不必要なものだと言えるだろう。今日私たちは自然に建てることによって、これまで営まれてきた建設行為の大部分が守られることを願っている。そして特にヒトが行動を起こし、出来事を生み、建設や設計を行い、環境に介入する度ごとに、そうした行為がどの位自然なもので、またどの位不自然なものになる恐れがあるのかと考えるようになれば、自然に建てるという方向へ向かう一般的なトレンドが形成され得るのである。(P202 自然に建てること - 住居)

住宅街を歩く度に思う。
理想の家の形とはどんなものなのか。

少なくとも「箱」ではないように思える。
自分の身体を見てごらん。
どこにも箱に収まるような形状などないはずだ。

自然の「目」で見れば、
立方体という形がいかに特異なものか、ということが感じられるはず。

ただ作りやすいから、管理しやすいから人は「箱」を使う。



[1972年ミュンヘン・オリンピック競技場]

ヒトは自然の驚異に勝つために闘ってきた。その過程で反自然なものを育て、自然を異化するマイスターとなったのである。今日、われわれの時代になって、ようやく自然なものを育むという考え方が成熟しつつある。どんな芸術作品もその発生プロセスによって形成されるが、同時に技術と区別できる。芸術作品とは、改良し得ないもの、最後まで発達したもの、すなわち高い能力に裏付けられてできた質の高いもののことである。技術がそうであったように、芸術もまた多くは不自然で自然に反するものであった。自然を異化してきたのである。しかしながら、芸術がその起源においてすでに自然に反するものであったとは言えない。ただ人工的なものは自然ではない。だが芸術が人工的であるとは限らない。芸術は自然なものであり得る(抽象芸術は具象領域の異化作用よりも自然であることが多い)。ヒトは芸術を見極め、それによって美的なものを見極める独特の能力が備わっており、そのうちのいくつかは生来のものであろう。それでもそのほとんどは後から習得したものであり、多かれ少なかれ正しいと分かっていても、これまで検証することのできなかった美学の思考モデルに負っている。そこで、一体自然な美学というものが存在するのか、あるいは人間によってつくられた美学の教えだけしか存在しないのかという問いは重要なことのように思われる。そこで問題なのは自然なものの文化や、自然なものの芸術があり得るのかということだ。技術の発達は−我々はそう望むのだが−反自然の技術を自然の技術へと導く。そして複合した関係を分析的に捉えようとする態度から、全体として把握しようとする態度へと導く。(P203 自然に建てること - 芸術)

美大に入るまで、芸術には全くと言っていいほど縁がなかった。
今、そんな時代を振り返って思う。
なんて味気ない人生を送っていたのだろう、と。

芸術は一部の美的センス、創作センスのある人たちのものではない。
技術と同様、社会に生きる人間すべてに必要なものだと思う。

テクノロジーと同様にエステジーもすべての人々に。



[1975年マンハイムの多目的ホール]

ヒトは常に合理的に、意味を持って、機能的の行動するという訳ではない。無意味なことをし、証明できない、ゆきあたりばったりの、感情的な行動を見せることは常である。そして他の動物たちとて、特に機能的な行為を強いるものがない瞬間には、そのヒトの行動と基本的に異なるとは思えない。ある種の動物や自然なままのヒトが、形、色、音響現象を機能とは全く無関係に知覚する能力生来持っているということは大いにあり得る。それを認めるなら、その美的認識能力は恐らく機能的なものの領域外にしかないのではないかという疑問が生じるだろう。美的なものは、機能的に条件付けられたような認識が優勢でない場合に、初めて十分受容することができるのかもしれない。満足感に溢れているような時、つまり空腹感がなく、不安もなく、性的欲求不満もなく、また特に強い欲望もないような状態の時には機能性は優位に立たない。そして美的な物体が認識されるには、まずそこから注意を引く何かが励起されねばならないことは間違いない。そのきっかけは、機能性すなわち精神的飢餓や欲望からも生じることがある。(P206 美的な存在)

理詰めでものを言う人間がいる。
そういう人は常に正しいことを言うが、
得てして人間的にはつまらないことが多い。

面白くないのである。
それは単なるひがみ感情なのではなく、
人間は常に「意味のある」「説明できる」「必要に迫られた」行動ばかり
しているわけじゃないからだ。
むしろ、そうでないときの状態のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。
そして「機能的な状態」でないときほど、
「しあわせ」を感じる瞬間が多いものではないだろうか。

その意味ではこのブログも、
もう少し「機能」から離れたほうがいいのかもしれない。



[1977年ピンク・フロイドのステージ・ルーフ]

美の本質を判断する時に非常に自信が持てないという事実は、ヒトが生来美的感情を持っているという仮定にマイナスの材料を与えるように思える。そしてその仮定に対して次のような反論がなされるだろう。もし生まれついての美的感情というものが本当にあるとすれば、まずそれを学ぶ必要がなく、そうすれば美とは何かを知り、何が美しいかを語る美学も不必要となる。そして恐らくごまかしやにせものがもっとすくなくてしかるべきであると。そうだとすると、この相手をあざむいたり、はったりをする行為がヒトの根源的なしるしであると見なすことと正に矛盾し、したがって生まれついての能力の存在を否定することはできない。美を見極める際の自信のなさは、ヒトやある種の高等動物が虚勢を張ることができるということに原因があるのかもしれない。(P208 美的な存在)

「自信のなさ」ほど、人間を社会的にダメにするものはない。
しかしそれは「臆病」という人間が生物として生来持っている防衛本能である。
「だます」とか、「はったりをかます」といった行為も、
社会的にはあまり良い行為とは言えないけど、
本来はそういった本能から発するものである。
本能が欲するものは生きていく上でそれなりに必要な要素である。
それを頭ごなしに非難してばかりでは能がない。

臆病さはけっして良いものとは言えないけれど、
全くなくてよいものか、というと自分はそうではないように思える。

これらの「負の要素」をどのように昇華させていくか。
そこにより良い人生を過ごしていくためのヒントがあるのではないか。



[2000年ハノーヴァー万国博覧会・日本館屋根(坂茂協働)]

建築は美しくなければならないと人は言う。しかし美しいことと善良であることとは一緒ではない。美しくても善良でないもの、美しくても野蛮なもの、また醜くても善良なものもある。建築では美しくあることよりも重要なことは、善良であること、すなわちあらゆる人間にとって善良なものであるということだ。金持ちや選ばれた人たち、あるいは貴族や犯罪者たちだけではなく、貧しい人や弱者、母親そして子供たちにとっても善良なものであることだ。善良な建築とは愛に根ざし、したがって技術的なだけでなく、官能的なものである。しかしながら、愛と美しさだけではまだ善良な建築とはいえない。...(中略)...現代建築は夢と距離を置いている。しかし、流行や日々の出来事に全く影響されずに夢を見ることができる人なら、古典的に精選されたもので、しかも性的で愛すべき独特な魅力を持った建築を取り巻き、人間を凌駕する権力のデモンストレーションではなく、人間のために作り上げられたもう一つの建築芸術があることがわかるだろう。このもう一つの建築とは、愛と美の官能的な建築であり、私たちの世界にあるものに近く、触れ合いを持つ建築である。自然に逆らうことのない、肉食動物ヒトの性質だけではなく、人間としての性質を反映させる建築である。このような建築を発見し、表現するのはまだまだ困難である。決して新しいものではないが、まだほとんどない。かつてすでにその萌芽はあった。...(中略)...一体、自然と愛の建築はできるのだろうか。私はそうあってほしいと望むだけである。人を惹きつけるような実例だけがことを前進させるのだ。建築は自然なものになり得るのだろうか。それは可能である。私たちは愛に満ちた自然な建築を願うものである。(P234 愛と自然の建築に向けて)

「ただ、その日その日を生きる」

人間以外の生物なら、それは至極まっとうな、自然な生き方である。

しかし人間の場合、それは罪悪である。

人間は人間としてその社会に生きているだけで罪を背負っているのである。
これは別に特定の宗教心に根ざすものではない。
それだけ人間は意識せずとも周囲の自然に迷惑をかけて生きているのである。
山を切り開き、海を埋め、地中を掘り返して、空中に汚れた気体を放ち、
天高く聳えるバベルの塔を建てる。
その影にどれだけの生物が犠牲になっていることか。
「ただ生きる」のではなく、「より良く生きる」というエゴのために。
これを罪と言わずしてなんと言おう。

その罪を贖うために人間がしなければならないことはただ一つ。
「考える」こと。
人間だけが「全体」について考えることができるのである。

自然と闘わず、自然の一部として機能する社会を考える。
これは人間としての義務である。

いきなり全く新しい何かを考えろ、というのではない。
ただ、「必要最小限のしあわせ」を意識しよう。
それだけで、どれだけエネルギーの浪費を防げることか。

贅沢は敵だ。
必要以上のものは悪である。


※本記事中の画像は必ずしも本書中に登場するものと一致するものではありません。
(pinterestからオットーの代表作を検索しました)



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