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2009年7月24日

ボードレールとロートレアモン伯爵

アート/ 学業

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[ボードレール](画像はWikipediaより)


前期の「特講Ⅰ」では5人の文学作家を学びました。

うち3人が詩人で、一人はジョン・ダン
残る二人が今回取り上げるボードレールとロートレアモン伯爵。

二人ともほぼ同じ時代に生き、共に「悪」を取り扱う詩人。
だからなのかどうもこの二人を混同してしまう。

年齢的にはボードレールのほうが四半世紀先輩。
ボードレールは46歳、ロートレアモン伯爵は24歳という若さで早逝。


人間は誰しも自分の中に「悪」を持っている。
完全なる「善」が神であるならば、神は「不完全な存在」として人間を創造した。
さらにその人間を男と女に分有した。

不完全であるがゆえに人間は生まれながらにして悪を内に持ち、
完全な存在になろうとして「美」を求める。


先人たちは人間の美を求める本質にのみに着目し、
「真・善・美」という芸術のプラス方向にのみ目を向けてきた。
しかしそれでは本当の芸術は、真の美は追求できない。

ボードレールは人間の二重性に着目することで悪の領域から美に迫り、
ロートレアモン伯爵は人間の不完全さを憎むマルドロールの視点において
悪の領域から美に迫った。


「美」とはいったいなんなのだろう。



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[ロートレアモン伯爵](画像はWikipediaより)


  愚かさ、誤り、吝嗇(りんしょく)は、
  我らの精神を領し、肉体を苦しめ、
  我ら、身に巣食う愛しい悔恨どもを養う様は、
  乞食たちが蚤や虱を育むにも似る。

  我らの罪はしぶとく、悔悟の情はだらしがない。
  告白をしただけで、おつりがくるほどの気持ちになり、
  卑しい涙に一切の穢れを洗い落としたつもりで、
  うきうきと、泥濘(ぬかるみ)の道に舞い戻る。

  ~(中略)~

  だが、金狼にもあれ、豹にもあれ、牝狼にもあれ、
  猿にも、蠍にも、禿鷹にも、蛇にもあれ、
  我らの悪徳をとりあつめた穢らわしい動物園の
  啼き、吼え、捻り、這いまわる怪物どものさなかに、

  さらに醜く、さらに邪な、さらに不浄な者が一匹いる!
  大仰な身ぶりもせず大きな声も立てないが、
  ひとあくびにこの世を呑みこむことも、やりかねない。

  これこそ<倦怠>(アンニュイ)だ!-目には心ならずも涙、
  水煙管くゆらせながら、断頭台の夢を見る。
  君は知っている、読者よ、この繊細な怪物を、
  偽善の読者よ、-私の同類、私の兄弟よ!

  (ボードレール『悪の華』「読者に」)


『悪の華』の冒頭で読者に向けて語られる悪への警鐘。
同様にロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』の冒頭でも読者への警鐘をしています。


  神よ、願わくば読者が励まされ、しばしこの読み物と同じように獰猛果敢になって、
  毒に充ち満ちた陰惨な頁の荒涼たる沼地をのりきり、
  路に迷わず、険しい未開の路を見いださんことを。
  読むに際して、厳密な論理と、少なくとも疑心応じる精神の緊張とを持たなければ、
  水が砂糖をひたすように、この書物の致命的放射能が魂に滲みこんでしまうからだ。
  猫も杓子も、これから先の頁を読めるというわけにはいかない。
  中毒せずにこの毒ある果実を味わうことができるのは特別な者に限る。
  だからひ弱な魂よ、この前人未踏の荒れ地にこれ以上奥深く踏み込まぬうちに
  踵を返せ、先へ進むな。いいか、言うことを聴くのだ。
  踵を返せ、先へ進むな。たとえば母親に真っ向から厳しく見つめられ、
  かしこまってそらされる息子の眼差しのように。

  (ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』「第1の歌」)


ボードレールは善と悪、美と醜、真と偽といった二重性の側面から
悪に着目する。

美しい恋人と目にした醜い屍。
一見まったく別物のように見える両者も、
同じ「生きもの」という点においては繋がっている。
「美」と「醜」と一見相反する両者も実は繋がっている、という事実。
同様に悪も善と繋がっている。

ボードレールにとっての「悪」とは、神や善に対する反抗、というよりも
人間存在の本質として存在した。
憎むべき悪、というよりは愛しむべき悪、ということだろうか。

一方ロートレアモン伯爵の場合は、
人間の不完全さを憎むべき存在として悪が存在した。
一見悪の権化のように見えるマルドロールも、
人間の持つ不完全さを反映しているに過ぎなかった。

マルドロールは不完全な存在である人間を作った神に反抗した。
それでも人間は完全な存在である神=アンドロギュヌスを
自分たちとは違う存在として最初は怖れ、虐げはしたものの、
その完全性に気づくや彼を信奉した。


芸術が人間の本質を追求するものだとするならば、
悪を愛しむか、悪を憎むかの差こそあれ、
二人は悪の側面を通じて芸術の範疇を拡大した。
プラスの方向に進むものだけを見つめていてはその全体を掴むことはできない。


人は本来快楽を、幸福を求める生きものだ。
それなのに世の中には悲しい物語や残酷な物語であふれている。
これまでそのことがどこか心の中に引っかかっていたけど。

二人の詩を学ぶことで疑問が解けた。


彼を知り、己を知れば百戦危うからず。


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